【自己紹介】放送作家になって海外移住するまで

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ごきげんよう。地中海からユキ子です。

突然ですが、今日は改めて自己紹介します。

小田和正のラブストーリーばりの突然さでごめんなさい。
この日、この時、この場所で君に出会えたし、見知らぬ2人のままってのも、ねぇ?

ざっくり言うと、わたしは
放送作家を辞め、モロッコで出会ったイタリア人と国際結婚するためにマルタに移住した32歳の女性。
国名が3つも出てきたらややこしいよね。ごめんなさいね。順を追わせてくれ。

”ウェイ疲れ” した大学

私は広島で生まれ育ち、大阪の大学に進学した。

初めての一人暮らしの自由さと、キラキラした都会に舞い上がっていた私こと“お上りさん”は、
「なんかオシャレなことしたい!オシャレな人はなんかウェイウェイ↑してる…
わたしもウェイウェイ↑↑したい!
というお上りさんらしい夢ができた。

そこから、お上りはファッションショーや音楽イベントの撮影スタッフをしてウェイを知り、アートイベントを主催しながらウェイを学び、VJ(DJの後ろに映像流す人)として朝までクラブに入り浸ってウェイウェイしていた。
ウェイ人に恋しては、終電に飛び乗って会いに行ったりした。(で、結局、漫喫に泊まった。悲しみウェーイ)

でもある日、はたと気づいた。

「ウェイウェイしんどい。オシャレすぎで無理」と。

何を隠そう、お上りはJ-POPで育ったの。
片思いの時はYUIのCHE.R.RYを聴いて「わかる~!」を連呼し、
別れたらHYのSong for..を聴いて涙し、
放課後は友達とカラオケでORANGE RANGEのイケナイ太陽を歌って過ごしたの。

友達がボサノバ系やテクノ系のアーティスト談義で盛り上がる中、
HYのAM11:00の早口パートを得意げに歌って「ラップ歌えるぜ!」って思ってただなんて、みんなには言われへんわけYO!


根っからの小ダサさをごまかして、オシャレな音楽を勉強し、日々進化するVJ技術を習得していかなけばならないんだけど。
そんなの、好きでやってる人に敵うわけないわけ

ウェイウェイしてみたけど、無理してるからしんどいわけ。
自分がウェイ属性じゃなかったことに、やっと気づいたわけ。


ウェイぶる前の、無理する前の自分に心を戻して考えた。
好きなものってなんだろう?

昔っからずっと変わらず好きだったことが2つだけある。
1番は宇多田ヒカル。そして、お笑いだった。

宇多田ヒカル好きをどうしたら仕事に繋げられるかわらへんので、次に好きな“お笑い”を仕事にできないか考えてみた。


そうだったそうだった、昔から芸人さんに憧れがあったんだった。
爆笑オンエアーバトルは毎週見てたし、特に松本人志さんが大好きで、本も読んでたし、ラジオも夜更かしして聞いていた。

ただ、芸人さんには憧れるけど、人前に出るのは苦手だし、自分が芸人さんになりたいわけじゃない。

でも「テレビ作る側」だったら芸人さんと一緒に仕事ができる。
よし決まった。私、テレビ業界に入る!と、お上りは目標を見つけた。

この時、大学4年生の夏。
ウェイに時間を使いすぎて、真っ当な就活をするにはもう遅かった。

ナメめた就活を経て、”3日で3時間睡眠 ” の激務へ


テレビ業界に進みたいけど、既にテレビ局の新卒採用募集は終了。というか、まぁ学歴的にそもそも無理なんだけども。

横着な私はどうにか最短で業界に入れんもんかね?と考えた結果
「テレビ業界の人が出入りする店で働いたら何かツテが出来るやろ!」とナメ腐ったことを思いつき、ツテを作るためテレビ局近くのBARにたどり着いた。

そこは一見さんがほとんど来ない静かなBARで、ちょっと癖のあるマスターが1人でやっていた。
事情を説明すると、全くお酒が作れないのに雇ってくれたのだ。
(癖もあるけど、その100倍人情もある)

初日に「お前、酒の作り方覚える気はあるか?」と聞かれ、「ありません!」と元気よく答えてから、ただ立ってるだけのバイトが始まった。ほんまに立ってるだけ。

テレビ局近くということもあり、BARにはテレビ業界のお客さんが毎日来店した。
常連だったテレビ関係者の方と話しているうちにディレクターよりも放送作家になりたいと思うようになった
放送作家になるには、どうも大きく4つの道があるらしかった。

▼元芸人、劇場作家  (芸人さんと漫才やコント、イベントを作る→テレビの仕事もする)
▼作家事務所に入る
▼制作会社に入りADから作家に転身
▼ラジオのハガキ職人(ほとんど居ない。個人的にすごく憧れの入り方)

※他に作家養成所もあるけど、卒業後にすぐフリーランスで食べていけるようになるのはほぼ不可能で、結局は事務所に入ったり劇場作家になる。

常連のテレビ局員さんに
「君の場合は、まずは制作会社に入ってテレビ作りのルールから学んだほうが良いよ」とアドバイスをもらい、さらにさらに、常連さんが副社長を務める制作会社まで紹介してもらった。なんて豪勢なお膳立て。

一応就職面接があったけど、準備ゼロで臨んだ結果、
「(会社名)さんは〜」と友達に話しかけるみたいな受け答えをしてしまった。
でも合格。なんせ豪勢なお膳があるので。

こうして就活らしい就活をせずに就職先が決まり、制作会社でAD(契約社員)として働き始めた。

働いてみてわかったことは、よく聞く「ADは全然寝れないよ」と言うのは本当!という事。
あと、中川家の業界人モノマネそのまんま!という事。


まだ働き方改革前で、夜中の3時まで会社に人が居るのが当たり前。
特番時期は3日で3時間しか寝れなかった。

どれだけ休みがなくてもテレビを作るのは面白かったし、先輩たちは面白いし優しいし、楽しかった。

ただ、でも、やっぱり。

私は放送作家になりたいのだ。

むしろADを経験したことで、よりその思いが強くなった。
契約期間の2年が終わる頃、社長に「作家になりたいので辞めます」と言って引き継ぎ作業後、会社を辞めた。

ただ、ADを辞めたからって、すぐに作家の仕事があるわけじゃない。
要するに、大阪の片隅に夢見る無職が誕生しただけだった。

放送作家に転身


制作会社を辞めて1ヶ月間は仕事がなかったものの、運よく早朝ラジオのレギュラー番組が決まった。

(後から知ったけど、“会社を辞めると番組関係者はその会社を立てて辞めた人間を雇わない”という暗黙の大人ルールがあったが、制作会社の副社長が「何かあれば、僕らに気を使わずあいつを使ってやってください」と言ってくれていたらしい。それ聞いたときは、家で静かに泣いたよね。)


どこの業界も一緒だと思うけど、フリーランスが仕事を増やすには、
1つの番組で成果を出す→そこで知り合ったプロデューサーやディレクター、先輩作家から別の番組に呼んでもらう
という積み重ねしかない。

毎日がオーディションみたいな世界で、少しずつ仕事が増え、2ヶ月後にはAD時代の月収を超えた。

だけど、わからないことが多すぎる。
技術的にも精神的にも相談できる人が欲しかった。


そんな時、AD時代から尊敬していた放送作家(恩師)から
「作家事務所を作るから一緒にやるか?」と誘ってもらった。

食い気味に即答し、私は放送作家の事務所に所属した。
頼りになる相談相手も、後輩もできた。

事務所に所属したことで、技術面だけでなく、
仕事や対人関係の考え方や、生きていく大事な指針…。私一人では何年かかっても出せない答えをいくつも教えてもらった。

1年後には事務所の副社長になり、このポジションがさらに私を育ててくれることになる。
その肩書きに恥じないよう、私なりに以前よりも頑張ったから。

女性で若手ということもあり、仕事は順調に増え、お金もまぁまぁ稼げるようになり、
比例して体重も増え続けていた頃。どれらい体重(89キロ)になっていた頃。

恩師の言葉が人生を変えた。


英語力ゼロで海外留学

ある日、恩師が言った。

「魔法のランプが1つあったらお前は何を願う?」




なんやこの質問は。
これ、もう人生やん。
アラジン言葉でポップ風にしてるけど、問うてるのは人生やんか。

もしも魔法のランプが1つあったなら、恩師は「作家としての成功」を願うのだという。
確かに彼の生活の全てがその1点を叶えるために取捨選択されていた。

では、私も同じように“仕事の成功=私の幸せ”なんだろうか?
私生活を全て捧げてまで仕事でステップアップしたいのだろうか?

うーん。それはなんか違う。
仕事の成功か、女性としての幸せか…

「仕事は好き。でも、結婚もしたい。できれば子どもも欲しい。いろんな経験をして、それを作家として活かしたい」

これが私の幸せなんちゃうかなぁと思った。
どっちかじゃなくて、これ全部が必要なんだと。


こうなると、どんな経験も肥やしにカウントできる。
(このタイミングでマッチングアプリも始めた→マッチングアプリで高身長イケメンに出会った話

なんでも経験やでぇ思考になった私は、ベタに留学したくなった。
留学といえば経験界の重鎮!トップオブ経験!
ついでにバックパッカーもしちゃおう、経験、経験!


28歳でレギュラー番組を全て辞めて、半年間、留学に行くことになった。
事務所の人や各番組の皆さんには本当に迷惑をかけてしまったし、各所に頭を下げてくれた恩師には感謝してもしきれない。


こうして、「100は、ミリオン?」くらいの英語力しかなかったが、留学がスタート。
ミリオンは100万や、しっかりせい。
留学はまずはニューヨークで年越し。
マルタで語学学校に通い、あとはイギリス、スペイン、フランス、ドイツ、イタリア、モロッコを周遊した。(ほぼ旅行)

そして、モロッコのサハラ砂漠に行くバスで、イタリア人のエルと出会った。
とあるドラマみたいな出来事をきっかけに、私たちは付き合うことになった。(詳細はまたいつか)

31歳、マルタ移住

国際恋愛はしんどいよ〜とよく聞くが、私には合っていた。

帰国後は、超遠距離なので会えるのは年に3回ほど。
1年の330日は、もう彼氏おらんのと一緒。

でもそれが良かった。普段は仕事に集中できたから。

仕事は元の番組に戻らせてもらえた番組もあったし、なんならレギュラー番組数は増えたし、留学前よりも待遇が良くなったりした。
やり甲斐の分だけ仕事は楽しくなる。

でも。

最初は「留学でイタリア人の彼氏ができましたー!って帰ったらちょっとオモロイよな」くらいの気持ちで始まった交際だったんだけど、誠実なエルとの交際していく中でいつしか結婚を考えるようになった。

ただ、そうなると日本で放送作家の仕事をしながらエルと結婚生活を上手くやっていく自信はない。
エルもマルタに会社を持っていたから、日本に移住するという選択肢はなかった。

結婚するには、私が移住するしかない。

仕事復帰から2年後、今度こそ仕事を本当に全部やめた。
10年間、生活のほぼ全てだった放送作家の仕事が終わってしまった。

こうして、2020年8月マルタに移住した。

自分らしく生きる、ということ

移住してから、日本での10年間が嘘のように毎日が穏やかだ。

目の前にはエメラルドグリーンの海、優しい婚約者。新しい友達だってたくさんできた。
英語も、少しは話せるようになってきた。

現地の企業にも就職。クリエイティブコーディネーターという、大層な肩書をつけてもらいデザイナー兼メディアコンテンツの制作に携わったりしている。


でも。

この満たされない気持ちはなんだろう。

マルタに来てから、ずっと虚無感。
まるで青春が終わってしまったみたいな。

放送作家時代は辛くて何度も辞めたいって思ったけど、それでもあの頃の方が全力で生きてた。
青春を思い返しては「あの頃は楽しかったなー」だなんて思う日々。


そんな虚しい気持ちを埋めてくれたのが、「必要とされること」だった。

移住してから、友人や知人からYouTubeコンテンツやネット番組の企画、オンラインイベントなどを手伝って欲しいと相談される事が増えたのだ。

フィールドは違えど「情報をわかりやすく伝える」という点では同じで、
放送作家として培った経験が役に立った。


それが、すごい嬉しかった。

私は番組やコンテンツを作るのが好き
それが誰かの役に立つのが嬉しい。


そこで、皆さんにお願いです。
もし私の培ったスキルや経験を必要としてくださる方がいれば、お手伝いさせてください。

下ネタばかりの当ブログですが、放送作家としての真面目な仕事実績はこちらにまとめていますので
一読いただけると嬉しいです。
お仕事実績




海外移住で諦めたことがいくつもあったけど、

「結婚もしたい。できれば子どもも欲しい。いろんな経験をして、それを作家として活かしたい」

これは諦めずに頑張ってみよう。海外移住を言い訳にせずに頑張ろう。

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